第4章 入学申請

有岡里穂の異変に気づいたのは、原口美愛も同じだった。眉をひそめて彼女のそばへ寄り、声を落として訊く。

「……怒ってないの?」

「何に?」

その返答に、原口美愛は目を丸くした。

まさか――石野星紀に彼女ができたことが、里穂の心を折ってしまった? 諦めきった、ってこと?

でも、それならそれでいい。原口美愛はずっと思っていた。石野星紀なんか、里穂には釣り合わない。

「ううん、なんでもない!」原口美愛は慌てて首を振る。石野星紀の話題は、ここで完全に封印だ。

「大丈夫。あ、そうだ。ちょっと校長室行ってくる。次の授業、欠席届お願いね」

有岡里穂はそう言うと席を立ち、鞄を手にして出ていこうとする。

「校長室? 何しに?」

里穂は西川安菜の入学の件を隠す気もなく、鞄から一枚の申請書を取り出して見せた。どこか面倒くさそうに肩をすくめる。

「転入生の手続き。もうすぐ授業始まるし、お願い。詳しい話は後でね」

原口美愛は申請書を怪訝そうに見つめる。

――里穂がわざわざ自分で動く相手って、誰?

問い詰めようとした瞬間、チャイムが鳴り響いた。

里穂は「頼むね」とだけ言い残し、鞄を抱えて校長室へ駆けていった。

チャイムぎりぎりで校長室に滑り込み、顔を出すと、校長は手を止める。

「有岡さん? どうしました」

有岡家は毎年、学校へまとまった額の寄付をしている。対応が丁寧になるのは当然だ。

「少しだけお願いがあって。原口校長」

有岡里穂は品よく一礼し、申請書を両手で差し出した。

原口校長は受け取り、目を落とす。

「西川安菜……。お友達ですか? それとも、有岡家のご親戚?」

――要するに、関係者なら便宜を図れる、という含み。

兄たちの言いつけを無視はできない。けれど、西川安菜を楽に入学させる気もない。有岡家の特権を、彼女に使わせるつもりはなかった。

前の人生では手取り足取り道を整えた。その結果、返ってきたのは恩知らずの噛みつくような仕返し。今度こそ、同じ過ちは繰り返さない。

里穂はその意図を悟り、にこりと笑って首を振った。

「支援が必要な方です」

原口校長は理解したように微笑み、申請書を机に置く。

「承知しました。では学校の規定どおりに」

申請書は朝に提出され、その日の午後には西川安菜のもとへ入学試験の通知が届いた。

通知を受け取った西川安菜は、何度読み返しても信じられなかった。

――有岡家の力があれば、ねじ込むだけで済むはずなのに。どうして普通の受験みたいに、試験を受けさせられるの?

自分の点数で、臨市第一高校のような進学校に受かるわけがない。

焦りで頭が真っ白になり、帰宅する有岡里穂を二時間待ち続けた。

扉が開いた瞬間、西川安菜は飛びつくように言う。

「里穂さん! 学校から入学試験の通知が……」

最後まで言わせず、里穂は穏やかに微笑んだ。

「どういたしまして」

その一言で、西川安菜の作り笑いがぴきりと固まった。喉に何かが詰まったようで、気持ち悪い。

里穂は小首を傾げる。黒白のはっきりした瞳が、静かに揺れる。

「どうしたの? わざわざ来たのって、入学申請を出してあげたことにお礼を言いに来たんじゃないの?」

臨市第一高校は手続きが早い。今日通知が来たなら、試験は明日――そういうことだ。

前の人生の西川安菜の成績は悲惨だった。里穂が有岡家の名を使って校長に頭を下げ、無理を通して入れてもらった。授業に付いていけない彼女のために、徹夜でノートを作り、個別に教えた。

それなのに返ってきたのは感謝じゃない。

兄たちは言った。

――安菜を見習え。底辺からトップ10まで這い上がった努力を見習え。

今も耳に残っている。あの女の、挑発と蔑みが混じった声。

「里穂さん、ちゃんと勉強しなきゃ。私、勉強に集中したから、ここまで伸びたんだよ」

思い出すほど、胸が冷える。

里穂の視線は冷たくなるのに、口元の笑みだけが深くなる。

沈黙の中、西川安菜は息を整えた。目元に涙を滲ませ、丸い目で感謝しているふりをして見上げる。

「もちろん、申請を出してくれたことは感謝してます。でも……臨市第一高校はすごくレベルの高い学校で。私の前の学校は田舎の普通校で……環境が全然違うんです。明日もう試験なんて、私……」

言葉をわざと途切れさせる。続きを「助けて」と言わせたいのが見え透いている。

けれど目の前にいるのは、一度死んだ有岡里穂だ。もう騙されない。

「だったら、なんで今すぐ勉強しないの?」

里穂は本気で不思議そうに尋ねた。

「時間がないんでしょ。雑談してる場合じゃないよ。頑張ってね」

そう言い残し、階段へ向かう。

だが一段上がったところで、西川安菜が腕を掴んできた。次の瞬間、泣き声混じりの声が響く。

「里穂さん……お願い、助けて」

里穂は腕を回し、軽くその手を外した。

すると西川安菜がふらりとよろめき、わざとらしく後ろへ倒れる。

里穂が呆気に取られた、そのとき――玄関から影が飛び込んできた。

「有岡里穂! 何してる!」

駆け寄ってきた男が、倒れる西川安菜を抱きとめる。

有岡健太だった。

眉をきつく寄せた黒い瞳には怒りが渦巻いている。とくに、西川安菜の目尻の涙を見た瞬間、感情が一気に噴き上がった。

「説明しろ。どうして、そんなことをする必要がある」

階段の上から、有岡里穂は淡々と見下ろした。前の人生と同じ筋書き。胸の奥が、真冬みたいに冷える。

「健太兄さん。どうして彼女が転んだら、必ず私がやったことになるの? 自分で立っていられなかった可能性は?」

有岡健太ははっとして、怒りが一瞬だけ揺らぐ。

――確かに。まだ何も確かめていない。

その隙を逃さず、西川安菜は青い顔のまま彼の腕にすがり、か細く囁いた。

「健太兄さん、私、大丈夫……私がふらついただけ。里穂さんのせいじゃないよ」

「……せいじゃない?」

その震える声が、健太の庇いたいという思いを刺激する。彼は再び険しい目で里穂を見た。

「ちゃんと確かめる。里穂は普段、俺たちが甘やかしてきたから拗ねることもある。でも、間違えたなら庇わない。謝るべきことは謝らせる」

そう言いながら西川安菜を起こし、丁寧にソファへ座らせた。

座った途端、西川安菜が息を呑む。

「……っ、痛……」

彼女はズボンの裾を上げ、足首を見せる。そこは見る見る赤く腫れていった。

腫れを目にした有岡健太の顔が、さらに陰る。そして階段の有岡里穂を睨みつけた。

「……何か言うことは?」

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